ニューヨーク・タイムズの次の記事(2024年5月22日付)では、アフガニスタンにおいてアメリカが支援したアブドル・ラジク将軍統治下の治安部隊が、タリバンに組みしていると容疑をかけた民間人を拉致し、拷問や殺害を繰り返していた実態が一定明らかにされています。
America’s Monster: How the U.S. Backed Kidnapping, Torture and Murder in Afghanistan
By Azam Ahmed and Matthieu Aikins Photographs by Bryan Denton
アメリカの怪物:米国はアフガニスタンにおいていかに拉致や拷問、殺害を支援したか
記事:アザム・アフメド、マチュー・エイキンス、写真:ブライアン・デントン
記事の冒頭は次のような描写で始まります。
その車列がタリバンの拠点にやって来ると、アフガン警察がスピーカーを使い、地元住民に集合するよう命じた。
集まった住民たちを前に、司令官のアブドル・ラジクは、2人の囚人を所定の位置に引き出すよう部下に命じた。
両手を縛られひざまずいた囚人たちは、ラジクの命令を受けた部下によってその場で射殺された。死体はけいれんし、地面が赤く染まった。
静まり返る中、ラジクは住民たちに向かって言った。
「私に従え。タリバンを拒絶しろ。私は何度でもここに戻って来る。同じことを何度でもやる。誰も止められない」
同記事では、アフガン戦争中、アメリカが支援したアブドル・ラジク将軍の統治下で300人以上のアフガン人が強制失踪されたことが明らかにされ、その犠牲者の数ははるかに多くなる可能性が示唆されています。
ラジクについて同記事では、米国がアフガン南部の支配権を奪取しようと2009年にアナウンスした大攻勢で数万人の米兵を送り込んだ際、ラジクがそこで中心的な役割を果たしたと説明されています。
ラジクと共に活動した元米特殊部隊高官のロバート・ウォルトメイヤー大佐は、タリバンとの戦いにおいてラジクほどよく戦った者は他におらず、彼が不法なことをしているのを見たことはないと述べています。
ウォルトメイヤー大佐は「ラジクは米軍の大攻勢においておそらく最も重要な人物であった」「彼と彼の部隊は米軍が戦うのを見ているだけでなく、圧倒的に戦った」と述べ、米国はラジクに対し米軍と共に戦う警察部隊をリードするよう求めたと説明しています。
彼は「ラジクを生み出したのはわれわれだった」とし、「米国の戦争はいつも同じだ。遺憾の念を持つことになる」と述べています。
同記事は、アフガニスタンの戦場となった地域での数か月にわたる聞き取りを含め、1年以上の取材を通して書かれており、アメリカが支援したラジクとその部下による権力の乱用、拉致や拷問、殺害の実態が明らかにされています。
調査・取材がアメリカ撤退後のタリバン政権の下で行われたことを踏まえれば、記事にタリバン当局の意向が何らかの形で反映されているのかもしれません。
しかし、記事を読めば、「人権を守り、より良いアフガニスタンを建設する」というアメリカの主張と、アメリカが支援し続けたラジクや彼の部下たちの実際の行動には大きな乖離があったことがわかります。
冷戦下、アメリカは共産主義の「封じ込め」や自らの国益のために中南米、中東、アジアにおいて独裁政権を支援し、その下で抑圧されていた民衆の不信と反発を買いました。
同様の構図が21世紀に入って以来20年におよぶアフガン戦争においても繰り返されていたように思われます。
以下は、同記事の内容を要約したニューヨーク・タイムズの購読者向け「Morning Briefing May 23, 2024」を抄訳して引用したものです。
アメリカの怪物:米国はアフガニスタンにおいていかに拉致や拷問、殺害を支援したか
ラジクは最も熾烈な同盟者
アブドル・ラジクはタリバンとの戦いにおけるアメリカの最も熾烈な同盟者の1人だった。彼は重要な戦場であるカンダハルでタリバンを撃退するのに貢献した。
ラジクの成功は拉致や拷問、超法規的殺害の上に
しかし、2018年に暗殺されるまでのラジクの成功は拉致や拷問、超法規的殺害の上に築かれたものだった。治安維持の名の下に、彼はカンダハル警察を制約のない戦闘部隊へと変貌させた。
無視された人権や適正手続き
ニューヨーク・タイムズが数千の事例を調査したところ、米国から訓練、武装、報酬を得ていたラジクの将校たちは、人権や適正手続きにまったく留意していなかった。
目的が手段を正当化
アメリカは軍事的便宜の名の下に、軍閥、腐敗した政治家、完全な犯罪者に力を与えた。アメリカは、目的が手段を正当化することの多い代理人(ラジクや彼の部下たち)を選んだのだ。
失踪が疑われる2200件近い事例
私たちはアフガンの研究者チームと一緒に、カンダハルの旧アメリカ支援政府が台帳に保管していた5万件以上の手書きの訴状を調べ上げた。その中に、失踪が疑われる2200件近い事例の詳細を発見した。
裏付けられた400件近い拉致の事例
私たちは、家族などがアフガン政府の治安部隊に連れ去られた、あるいは殺されたという人びとを1000人近く追跡した。私たちは400件近い事例を裏付け、多くの場合、拉致の目撃者に話を聞いた。
また、アフガン警察の報告書、宣誓供述書、その他の政府の記録によって、拉致の被害を訴える彼らの主張を立証した。いずれの強制失踪事件でも、拉致された人びとはいまだ行方不明のままである。
米政府関係者はラジクの行為を把握
当時でさえ、米政府関係者はラジクの行為を把握していた。アフガンに関する複数の役職を歴任した国務省のヘンリー・エンシャーは「人権侵害の疑いのある事件についてラジクに質問した後で、自分たちが戦争犯罪に巻き込まれたことにならなければよいのだがと思った」「自分たちのしていることは分かっていたが、他に選択肢があるとは思っていなかった」と回想している。
タリバンに利用される
十数人以上の米政府高官が、ラジクがいなければタリバンはもっと早く侵攻していただろうと語った。しかし、ラジクのやり方はコストの伴うものだった。タリバンはラジクの残忍さを自分たちの戦闘員を募る手段として使った。
アフガン政府を侮蔑
多くのアフガン人は、米国が支援するアフガン政府とそれを象徴するものすべてを侮蔑するようになった。弟を拉致されたファズル・ラーマンは「当初はタリバンを支持する者はいなかった。しかし、アフガン政府が崩壊した時、私は喜び勇んで通りを走った」と語った。
民主主義を憎む
ラジクの死後、彼の部下であった指揮官たちの腐敗した行動はさらに強まった。彼らは一般市民を恐喝し、部下の賃金や物資を盗んだ。当初アフガン政府を支持していたカンダハルのある住民は「国民は民主主義を憎むようになった」と語った。
アメリカの過ち
世界で最も裕福な国が、最も貧しい国に侵攻し、新政府を樹立してその国を作り変えようとした。しかし、アメリカは冷酷な殺し屋に力を与え、支持者を敵に回し、腐敗を蔓延させるという過ちを犯した。
同記事の本文からの補足
以下は記事本文を抄訳して引用したものです。
強制失踪
(どれだけの数の者が拉致されたかは不明だが)カンダハルでの強制失踪にはアメリカが支援したアフガン政府が一貫して関与していたことは明らかだ、と元役人や戦闘員、犠牲者の家族たちは語っている。
「タリバンは捕まえた者を消す必要がなかった。見つければ、そこで殺してしまえばそれでよかった」とカンダハルのパンジャビ地区を担当していた政府の元役人、ハスティ・モハマドは述べた。「政府が捕まえた者を失踪させたのは、やっていることが違法だったからだ。事実を隠し法を逃れようとしていた」
ニューヨーク・タイムズが確認したところでは、アフガニスタンでの失踪件数は、1978年のソビエトが支援した共産主義者によるクーデターの後に数万人が失踪して以来、最大の件数に上った。
家族は失踪者を悼む中、自分たちの無力さと向き合わなければならなかった。米国とNATO同盟国の支持を受けたラジクは手出しのできない存在だった。
強制失踪の事例
ファズル・ラフマンは油の染み付いたバイク店へ急いだ。整備士だった彼の兄が拉致されたという電話を受けたからだ。
パニックになる中、店の従業員たちが彼に語ったところでは、2016年9月3日の朝、覆面パトカーのトヨタカローラに乗った民間人の服を着た3人の男が店に立ち寄り、彼の兄にトランクの中の発電機を見て欲しいと言った。
その後、多くの目撃者が見ている中で、その男たちはファズルの兄、アフマド(28歳)をねじ伏せて車に押し込み、猛スピードで立ち去ったという。
ファズルやそこにいた誰にとっても、この仕業がアフガン警察によるものであることは明らかだった。カンダハルの警察治安部隊はラジクによる統治の下、タリバンの反政府活動に組みしていると容疑をかけた民間人を拉致することでその悪名が知られていた。
拉致された多くの者が失踪した。そうでない者はバラバラ死体となって、通りに捨てられた。数少ない幸運な者が生きて戻って来たが、傷と拷問の苦しみを負った。
失踪者の中には実際にタリバンだった者もいたが、そうでない者もいたと家族や親族は語った。失踪者の多くは戦争とは関わりのない整備士や仕立職人、タクシーの運転手などの労働者だった。
アメリカの「同盟者」ラジク
何年もの間、アメリカの軍事的指導者たちはラジクをタリバンとの戦いにおける同盟者、アフガニスタンにおける模範的なパートナーとしてもてはやした。誰もがラジクのように戦うなら、この戦争に勝てるかもしれない、とアメリカの司令官たちはよく言っていた。
ラジクは、米国がアフガン戦争において最も多くの地上部隊を送った時期にカンダハルの重要な戦闘地域を支配し、米国の支援の下で中将にまで昇進した。
アフガニスタンを巡回するアメリカの将軍たちは定期的にラジクの元を訪れ、彼の勇気や猛烈な戦いぶり、米国や同盟国が訓練し、武器を与え、報酬を払っていた戦闘員たちから彼が得ていた忠誠を讃えた。
アメリカは最後までラジクを支持した。ラジクが2018年にタリバンの隠密の暗殺者による銃弾に倒れた時、彼はアフガニスタンに駐留する米軍最高司令官オースティン・S・ミラー将軍の隣りを歩いていた。ミラーはラジクを「良き友人」であり「愛国者」であると称賛していた。
ラジクの残忍さの背景:部族間の対立
ラジクは個人的な恨みを晴らすためにアメリカや米軍の力を利用し、彼が属する部族が何十年もの間抗争を繰り返していたライバル部族に対し報復を行った、と多くのアフガン人が述べている。
ラジクの父は運転手で、パキスタンとの国境に車を走らせることも多かった。ラジクがまだ少年だった頃、彼の父はいつものコースを運転中に失踪し、広大な砂漠に消えた。
アカクザイ族(the Achakzai)に属していたラジクの家族は、長い間対立関係にあるノールザイ族(the Noorzai)を非難していた。この2つの部族はタリバンが政権を握るはるか前より、数十年にわたる致命的な抗争を繰り返していた。
「ラジクの父はアカクザイ族であるがために殺され、その遺体は消された」とラジクの弟であるタディン・カーンはニューヨーク・タイムズに語った。
ラジクはアフガニスタンの数十年で最も残忍な強制失踪を実行し続けた。この行動においては、ラジクの部族と対立関係にあるノールザイ族をターゲットにすることも多かった。ノールザイ族の多くはタリバンを支持していた。
アメリカの多くの元高官たちはインタビューの中で、アフガンにおけるこうした部族間の対立の構図を理解していなかったことを認めた。
つまり、米国は自分たちが遂行する戦争についてほとんど理解できておらず、それが長きにわたるこの戦争の決定的な特徴であった。
※ アフガニスタンにおける部族間の対立についてアメリカの理解が不足していたことについては、クレイグ・ウィットロック・著/河野純治・訳『アフガニスタン・ペーパーズ:隠蔽された真実、欺かれた勝利』(岩波書店)(52-53頁)に次のような件があります。
アフガニスタン文化についてかなり精通していた数少ないアメリカ人の一人に、伝説的な外交官、マイケル・メトリンコがいた。
…(略)…
メトリンコによると、アフガニスタン人は、権力闘争や土地の取り合い、商売上のもめ事などで、競争相手を排除したければ、その相手がターリバーンに属しているとアメリカ人に伝えさえすればいいと知ったという。
「われわれがターリバーンの活動と呼ぶものの多くは、実際には部族的なもの、抗争、古くからの確執だった」とメトリンコは言った。
「私はこのことを部族の長老たちから何度も何度も説明してもらった。…(略)…そしていつもこう言っていた。おまえたちアメリカ兵はわかっていない。いいかね、ターリバーンの活動だと思われているものは、実際には百年以上前から特定の部族の中で続いている確執なのだ、と」。